江戸時代の著作権

「江戸の訴訟」(1)という本を読んでいたら、嘉永3(1850)年8月から9月にかけて富士山東麓の御宿村(現在の裾野市御宿)の名主が江戸に出てきた際に、「大岡政要記」を写本した費用として写料を164文払ったという記録があることが書いてあった。同じく「大岡美伝」30巻の見料は124文とも書いてあった。これらは当時盛んであった貸し本屋から本を借りて写したり読んだりしたものである。
「写料」というのが気になったので同様のことが書いてあるものがないかと調べているが、今のところ見つけられない。この記述によれば、写すこと=複製をつくることは見ること=読むこととは別の権利として存在したことになる。

江戸時代は出版文化が開花した時代である。
初めて版元から原稿料をもらったのは山東京伝(1761年-1816年)らしいが、最初に印税で暮らしを立てたのは、東海道中膝栗毛で有名な十返舎一九(1765年-1831年)だとか、南総里見八犬伝の滝沢馬琴(1767年-1848年)だとも言われている。
原稿買取りに近い形のようだが、それでも再版したりする際には相応の謝礼をもらっていたらしいし、当時でも勝手に出版されたのをやめさせるなどもあったようだ。

この時代の出版は木版による印刷が主流であるが、現在の複製権や出版権と似た「重板」という権利があった。また同じような書物や抜粋版などを出してはいけないという「類板」という権利もあった(2)。
著者の権利は現在と較べると正式に保護されていたとは言えないが、版元が持っていた権利を出版権や著作財産権の一種となぞらえることもできよう。

大阪の書籍商仲間が重板・類板禁止の取り決めをお上に申し出るのが元禄11年(1698年)で、聞き届けられるのが同年8月22日であるから(3)、近代的な著作権法の始めと言われているイギリスのアン法の1710年よりも早かったことになる。内容的にも出版社(印刷)の権利から出発したという点でも類似しているところがある。江戸時代の日本では版木の所有者である版元が 出版物に関する権利者と考えられていたが、著者ではなく出版社の権利から始まったのは日本に限ったことではない。
江戸時代のこれを「著作権法」というかどうかはともかく、江戸時代にも著作物を発行する権利は一種の財産であり、著作者人格権は軽んじられていたにせよ、明らかに現在の著作権に通じる権利が存在したのである。



(1)高橋敏 『江戸の訴訟』 岩波新書 1996年
(2)市古夏生「近世における重板・類板の諸問題」 中野三敏監修 『江戸の出版』 p.234-247 ペリカン社 2005年
(3)長友千代治 『近世貸本屋の研究』東京堂出版 1979年

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このページは、Permission Coordinatorが2010年5月 7日 02:57に書いたブログ記事です。

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